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秘書育成コンサルタント 元外資系企業秘書

永田 美保子(Mihoko Nagata) 

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第1章:在宅秘書と一般の秘書の違い

第2章:在宅秘書を始めるにあたって

第3章:実際に仕事を始めるための知識

第4章:準備編 在宅で仕事をするために用意するもの

第5章:スキルアップしたいとき・困った時には

第6章:自分に合った在宅業務とは?

第7章:業務内容別・仕事の選び方

第8章:在宅秘書からさらに進んでキャリアを考えたとき

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詳しいプロフィールその3:本格的に役員秘書を始めて退職、フリーランスとして個人事業主として

詳しいプロフィールその2から続きます。

 

帰国 本格的に役員秘書業を始める

 

日本に帰国してすぐに、東京に住むために仕事を探しました。ちょうど台湾のコングロマリット、フォルモサプラスティック(台湾プラスティック)のPC部門FICが日本の拠点を立ち上げたのでそこの日本FICの社長秘書として働くことが決まります。

 

上司は台湾人の社長で、台湾の本社からは時々社長の上司でもある、実質的会社オーナー

の会長夫妻が訪問してきました。

この二人が本当に人間的にも偉大な方で、一緒に仕事できるのが光栄でした。

しかし、業務の縮小で1年足らずで会社を去ることに。

 

日本企業の副社長秘書

 

1995年、PCの世界ではウィンドウズブームなどいろいろあった年ですが、かかわり始めていたIT業界でのご縁が重なり、とあるオーナー企業の日系SI(システムインテグレーター)で秘書として働くことになりました。

 

担当上司が日本IBM出身の副社長なので、日本企業であっても外資向けの秘書が必要だった

という背景があったようです。

そして、今度はIBM流のやり方を学ぶために、一か月箱崎のIBM本社に通いました、当時このオフィスは営業部隊がつめているオフィスでした。

 

上司は優しいジェントルマンでしたが仕事面では非常に厳しく(当然ですが)、金融系システムの営業経験が長いことも関連してか、一つ一つのアポイントメントにに全身全霊を懸けて仕事をしていました。 つまり、なんとなく人と会うのではなく、自分の時間を切り売りしているのではなく、時間管理を徹底するということ。

スケジューリングについては語りつくせないほど事例があるのですが、一つだけ例を挙げてみます。

 

秘書側が面会のリクエストを受けて手配する際、下記のようなチェック項目があります。

ミーティング時間の長さは3種類 15分/30分/1時間 それ以上はありません。

 

・誰のリクエストによるミーティングか

・テーマ

・内容・何を話し合うのか

・それによって何が得られるのか(目的はなにか)

・所要時間 (15分/30分/1時間)

・場所(自分のオフィスか先方に赴くのかその他)

・備考

 

たとえ、15分のミーティングでも事前にこれをメモ書きにして副社長本人がOKしたものしかカレンダーにのせません。

したがって、ご挨拶に来ました、というだけの訪問は受けません。

 

今、私が多少の面倒なアポイント調整にも平然としていられるのは、当時の一日10件平均、

15分単位の外部との面談予約を調整・再調整してきたこの時の経験のおかげです。

 

副社長は一つ一つの仕事のクオリティに大変厳しく、「秘書を鍛える最右翼」 とご自分で

称していました。 筋の通らないことは相手がだれであろうと一切受け入れませんでした。

本当に良い経験でしたし、よく叱られました。

 

本当に、今の私があるのはこの時のK副社長のスパルタ教育のおかげといっても過言ではないです。

 

 

その後の外資秘書時代

 

このシステムインテグレーターC社のK副社長の退任に伴い、

日系企業の秘書を辞めてから、外資の秘書を極めることに決めました。

丸の内にある米国メーカーに入社。

 

この日本支社で主に外国人トップ付きの秘書としてのキャリアをスタートしました。

ここでは、通常の秘書業務に加えて、株主がらみの合併により、アメリカ100%の

日本法人から、日米合弁企業に変更となることがきまり、そのためのもろもろの

社内手続きに翻弄されながら仕事をしていました。

 

そんな中、常に、

日本とアメリカ

経営陣と従業員

マジョリティ(日本側企業出身者)とマイノリティ(アメリカ側出身者)

 

といった2極の間に入って調整をする役割で、精神の異常な消耗・感情労働に疲れ果てて

 

途中一度、2005年に退職しました。

 

その後、徐々に仕事を再開、ドイツ系企業でも秘書の仕事をする機会に恵まれ

 

2007年にご縁があって以前の日米合弁企業に復帰、再入社しました。

 

今度は、今までと同様の役員秘書業務に加えて、社内ウェブサイトや仕組みつくりの

プロジェクトも多く担当。

2011年の震災の時は特命事項的な役割もあり外国人の脱出を手伝う担当者

として、アメリカからの最新情報によって対応に当たりました。

 

また、管理職候補として(現職秘書でありながら)

 

 部下の到達度別トレーニング(SL2)

 ロジカルシンキング

 シックスシグマ (経営品質改革プロジェクト)

 

などのトレーニングを受けたりしました。

 

社内では若手、後輩の秘書の方たちやセールスアシスタントの方向け

に秘書の基礎トレーニングも提供したりしていました。

 

 

介護休職から退職、フリーランスで独立へ

 

一方プライベートでは、田舎の両親ともに「お手伝い以上、介護未満」

のケアがだんだん必要になってきました。

また、都内に住むもうひとりの母は要介護認定。

 

時には週末も拘束されるエグゼクティブ秘書業務は急な自己都合では休めない

ため、精神的にも体力的にも仕事を続けるのが難しくなり、

介護休職させていただくことになりました。その3か月後、復帰の見通しが立たないため

退職します。

 

翌年、フリーランス秘書業、ライター業として独立して個人事業主として在宅秘書育成カウンセラーとしての活動を始めました。

 

まだまだやりたいことはたくさんあります。

これからも自らの決めた道をまい進してゆきたいと思います。

 

ここまでの長文をお読みいただき、ありがとうございました。

 

永田 美保子