詳しいプロフィールその1:子供時代から学生時代、最初の仕事まで
こんにちは。永田美保子です。
私の事をもっと知っていただけたら嬉しいな、と思い、
私の子供のころから現在までのことを、プロフィール詳細版として
思い出しながら書いてみました。
その1からその3までとなってしまい、かなり長いですが、お時間のある時に
でもお読みいただけたら幸いです。
全体のリンクは下記です。
詳しいプロフィールその1:子供時代から学生時代、最初の仕事まで
詳しいプロフィールその3:本格的に役員秘書を始めて退職 フリーランスとして個人事業主として
***********
私は栃木県出身で東京の大学で電子工学を専攻した
エンジニアの父と、静岡県出身で元銀行員の母の間に
長女として生まれました。
幼少期 埼玉県の米軍基地で異文化との出会い 4歳で米国人のご婦人たちに
囲まれて半分遊びで英会話を始める。
一方で、人前で歌って踊って絵をかくのが大好きなアーティスティックな変わった子。
一人遊びが大好き。4歳の時、妹が生まれる
小学生の頃 父の仕事の関係で埼玉県内で引越し3回、そのたびにおとなしい子になってゆく。
6年生の時は担任が厳しい国語の先生。指導いただいてとにかく文章を書きまくる。
学校を代表して読書感想文コンクールに出たり、新聞委員会の委員長など。厳しかった。
中学生の頃 テニス部に入るが、なじめなくて辞める。同時期、 虫垂炎で入院。
お見舞いに誰も友達が来なくてちょっぴりさびしい思いをする。
英語のスピーチコンテストに学校代表で出場。緊張のあまり頭が真っ白になり原稿がすっ飛んで入賞はなし。
このころなぜか音楽にのめりこむ。何か楽器をやりたくて電子オルガン(エレクトーン)を習う
15歳の時
*エンジニアで会社員だった父がついに脱サラで開業(当時は起業という言葉がなかったのです。)
父の事業の関係で埼玉から栃木に引越し。そのために受験生として栃木の高校を受験。
受験終了後、技術者ではあるが商人ではない父らしく、段取りの悪さから「住む家がない」事件が起きました。
(詳しくは別途。。。なんとも衝撃的な事件だったので)
それにしても女子高生にとってはなにかと負担の大きい日々でした。
高校生の頃 高校時代はおとなしい優等生。しかし在籍していた女子高での良妻賢母を求める教育方針に内心うんざり。
<高校時代のエピソード>
体育のダンスの授業では女子高のため半数が男役担当。
背の順で男役・女役を決めるので大きめの私はいつも男役!(宝塚か?)
男性パートとして社交ダンスを踊るのはとっても面白かったです。女性をリードするなんて。
おかげで今でも女性役のステップができません。(泣)
学校で行われた進路のための能力テストでは向いている職業がなぜか医者でした。
医学部なんて入れるはずがない(と思っていた)し、実際の進路指導に生かせない結果だとがっかり。
結局、希望していた文系や外国語学部は地元の学校にないため、理系のなかの文系と呼ばれた農学部
農業経済科受験へ。
*このころ父の事業は相変わらず全く軌道にのりませんで、経済的にはかなり困っています。
<大学受験時のエピソード>
郵政省の国家公務員採用試験に合格。大学に受からなかったらこちらに行くはずでした。
東京の大学(ICU)を記念受験。 庭が広くて驚きました。あと受験生がメイクしてるのも(帰国子女が多かった)カルチャーショック。
無事、地元の宇都宮大学に合格しました。農学部農業経済科の歴史が始まって以来、女子が10名を超えた学年でした。
大学生の頃 国立大学なのと奨学金、さらに授業料免除措置のおかげで、何とか学業続行できました。アルバイトはいろいろやってみて意外と楽しかったのは、塾の先生や家庭教師。ビジネスホテルのレストランでは人間模様が興味深かったのを覚えてます。
農学部だったので一年次は農業実習があり、初めてトラクターを運転したり、
牛の世話をしたり。農作業は大変でもあり楽しくもあり。
ゼミの教授が当時としては国際的な人で、外国人の奥様とも仲良くさせてもらう。
卒論はアジア経済について。 取材方法は今も変わりませんがこの時から体当たり(笑)。栃木県西那須野にあるアジア学院(アジアアフリカ各国の農業研修生に指導している)に取材に行って研修生と寝泊まりしながら国際援助についてのレポートを書く。
就職活動で東京の企業からも内定を頂き、ひそかに赤坂勤務をもくろむものの、一人暮らしの資金もなく、最終的には地元栃木県で自動車メーカーの研究所に入社。
仕事開始
初めての職場は自動車メーカーの研究所。
当然ながら人より車を優先するオフィスの構造にびっくり。
カリスマ創業者の本田宗一郎氏本人にお会いする機会もあって感激でした。
仕事があわなくて挫折の連続
一方、通勤時の車の運転が大変過ぎて(往復で約3時間)それだけで
疲れてしまって仕事にならず。また、地元採用の女子が長く続けられる
職場ではないこともわかりました。(お嫁さん候補としての採用で
キャリアプラン皆無)絶望して退職を決意。
そのころ栃木に進出してきた米国企業、P&Gのバイリンガル秘書を一年経験。
ところが!私の認識が甘かったことがわかります。自分の英語力では仕事に
ならないことがわかりました。
続きはこちらから 詳しいプロフィールその2 海外留学から海外勤務まで